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はじめまして。当サイトに お越しいただきまして、
ありがとうございます。代表 の田中敬子です。私の息子は 障害を持って生まれてきまし た。主人は脳梗塞になって記 憶をなくしました。
そして私自身も…
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田中敬子 プロフィール

笑顔つなぎ人 田中敬子です。

現在の活動に至るまでの経緯、そして「私について」

「将来について」書きました。

(長くなりますので、ご興味のある方だけご覧くださいね♪)
 

2010年4月1日、49歳で自宅サロン

Salon de Perles サロン・ド・ペルルをオープン。


笑顔つなぎ人 田中敬子

 

「perles」はフランス語で真珠です。パリが大好きです。

若々しく健やかにそして、「心身ともに真珠のような輝き」を

もって過ごしていただけるような

リラクゼーションのご提供を目指しております。
食と美と健康をお伝えする健康管理士が、

みなさんを笑顔にするサロンとして活動をしております。
 

ローマオリンピックの年、東京都品川区に生まれました。

小さいころは、かけっこが大好きなおてんば娘でした。

幼稚園は近所の「りつこちゃん」と一緒に二人で歩いていきます。

今のように、親が幼稚園まで送っていくことがなかった時代です。

「り・つ・こちゃん!おはようございます!」
「けいこちゃ〜ん!まだ、ご飯、食べてるから上がって待ってて!」

楽しい、のどかな時代だったと思います。

小学校は、元気に外を飛び回って遊んでいました。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子


受け口だった私は、その頃、流行っていた「ドリフターズ」の
長介さんに似ているということで、
「ちょうすけ〜ちょうすけ〜」と、いじめられました。
そのことで、母に頼み、歯の矯正をさせてもらいました。
その時の矯正方法では、上下の歯を4本抜いて、
歯に銀ギラな装具をはめて、小さなゴムで、

上の歯を前に動かすのです。
頭が痛くなりましたが、受け口を治したい一心で、我慢しました。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子
 

中学校は、姉が通っている同じ女子校だけ1校の受験。
中学、高校と陸上部。

あまり活発な部活ではなかったのですが、

走ることが好きだった私は、走っていました。


学校の校庭がアスファルトだったので、

土曜日はグランドでのトレーニングへ。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子


合宿は、河口湖など。

その頃は、運動中に水を摂りながらという時代ではなかったので、
今考えると、怖いことです。

河口湖一周の練習が懐かしいです。
 

短大は、英文科へ推薦入。

体育会ゴルフ部に所属しました。

部活の月例試合、応援などは平日のため、

授業を欠席することになるので、授業は真面目に休むことなく、

出席していました。
 

ただ、朝練の後の1限目の英作文の授業だけは、

眠くて寝てしまい、授業後、呼び出されたこともありました。

先生にテストの点数だけでない評価で落ちていたら、

卒業できていなかったのではと思うと、ぞっとします。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子

 

月例、夏のブロック試合に向けて、日々の練習、練習ラウンド、

合宿と、練習を続けていた青春時代を送りました。

2年生になって、先輩から各役割の発表となります。

主将を務めさせていただくことになりました。

副将、学連、会計等々、それぞれの分担で、仕事をします。

それをまとめていくという、良い経験をさせていただきました。

 

ゴルフというと、お金がかかるというイメージがあります。

私たちのできるバイト、キャディ、神宮外苑練習場のゴルフボール

拾いなどを、練習代、ラウンド費用に当てました。

“体育会ゴルフ部”スポーツとしてのゴルフを体験できた2年間。

 

短大、4年性の区別はなく、ブロックに分かれていました。

短大は、2年目には、試合で戦わなければならないので、

厳しいものですが、楽しかったです。

仲間との合宿では、冬も、日の出から日没まで、練習です。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子
 

皆で努力して、試合に臨みます。

試合当日の出場メンバーを最終的に決めるのは、

主将の仕事でした。
 

自分自身も、数字を出してこないとならず、プレッシャーもありました。
夏の試合のスタート前のあのドキドキは、忘れることができません。

スタートしたら、あとは、いかにメンタルに勝つか、上がっていくつ!

の戦いです。

 

ロングショットも、短いパターの一打も同じ「1」ストロークです。
2年間でたくさんのことを学ばせてもらいました。すべてに感謝です。


短大卒業後、英文科だったこともあり、

商社への就職を希望しました。
第一志望の商社は不合格。
メーカーの商社部門へ入社。

貿易関係へは専門学校生が、配属されていました。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子


私は、鋼板部厚板課へ配属になり、

その後、薄板課。両方の仕事をさせていただきました。

神戸からの鋼板が、船積みされての進捗状況の確認、

発注という営業補佐を2年間。
皆、大阪弁の上司に可愛がっていただきました。

 

同期たちとは、ランチタイムも楽しく、

未だに、その同期たちとの同期会をしているぐらいです。


同期の中では一番早くに結婚退職し、22歳で結婚しました。

すぐに、妊娠することができず、母も心配していたのですが、

24歳で、長女を帝王切開での出産。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子


出産後、私の卵巣が一つしかないことを母から告げられました。
小学校5年の時、祖父の法事があった時、

お腹が痛くなり、その日は寝ていて翌日、病院へ行ったら、

急性虫垂炎で急きょ、手術になりました。

なので、普通の盲腸の手術の傷より、倍ぐらいあるそうです。

その時に、卵巣が癒着してしまっていたとのことでした。

 

陣痛が来てから、2日目の夜に、

急きょ、帝王切開になりました。
帝王切開にも関わらず、産後の出血が止まらず、

薬を飲んで1週間。それでも止まらず病院へ。
病院へ行く夕飯に、「肉じゃが」を作っていたのですが、

同じ階の娘と同じ学年の子を持つ友人が、

娘も、肉じゃがも預かってくれました。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子

 

結局、病院の診察台の頭の上にある文字!!

 “少し痛いです” 麻酔もなく、掻き出されて、

痛い思いをして、「少し休んでから、帰ってください。」
娘のことも気になりましたが、

すぐに帰れる状態ではありませんでした。
病院から、小雨の中、タクシーに乗れる甲州街道まで

必死で歩くまでしか、今も思い出せません。

 

長女が1歳半の時、長男を妊娠していて、7か月。
妊娠7か月の時に、寒い1月、娘の一歳半検診から

戻った時、お腹がはってきてしまいました。

先生と電話で話しているときに、そのまま、

陣痛になってしまい、大雪の夜でした。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子

 

救急車で、五反田までの道のり、チェーンを巻き、

ガタンガタンと走りました。
 

病院の前で、担当の先生と、母が待っていてくれました。

そして、1,500gあるか分からない息子のために、

広尾の日赤医療センターの先生が哺育器を用意して

待ってくださっていました。

 

息子を一目見ただけで、哺育器で運ばれました。
私は、生まれて、息子を抱っこしてあげることができなかったのです。

それから、周りのお母さんが母乳をあげているなかで、

私は搾乳しました。

 

母乳は、冷凍していただきました。

毎日、新しい母乳を夫と母が交代で、届けてくれました。
私の何よりの救いは、母乳を飲ませていただけたことでした。
 

入院中、私が、母乳搾乳を見ていた、他のママが
「うちの子供におっぱい、飲ませてあげて!」

と言ってくださった優しさは、忘れられません。
 

自分の退院後、初めて息子に会いに行きました。
手を洗って、白衣をきて、哺育器にいる息子を見たとき、
呆然と立ちすくみました。

たった1キロの肉のかたまりでした。

生理的に、体重も減少し、800gを切りました。

母乳を搾乳しているので、体が疲れてしまうといけないのでと、

私は、1週間に一度、夫との面会に行くのが楽しみでした。

笑顔つなぎ人 田中敬子


毎日、夫と母が母乳を届けたときに、「何グラム増えた!」という連絡。
無呼吸発作が起きたと、何回か、病院から電話もありました。
 

3か月半の入院後、退院する時、

ABR(寝ている間の聴力検査)に反応がないという話を聞きました。

日常での音の反応がありませんでした。

女子は、3,000gを切っていても、元気で退院していきます。

退院後も、未熟児網膜症の心配もされて、検査を連続でした。

未熟児網膜症は大丈夫となりました。

 

安心したのもつかの間、今は亡き、

耳鼻科の医院長先生に、

「高度難聴です」と告げられました。

その時、私は、一人でした。

今も、なぜ、あの時、一人だったのだろうか、

覚えていないのです。夫は、忙しかったのでしょう!
 

音に対しての反応がなかったので、

覚悟はできていたものの、
「私は、大変なことをしてしまった。息子を障害児に産んでしまった」

という気持ちでした。
どうやって帰ってきたか、その時のことは、思い出せません。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子

 

それから、息子、障害児の子育てが始まりました。

ちょうど、その頃、杉並から、今の大井町へ引っ越してきていました。
ろう学校幼稚部へ通い始めました。

その頃のろう学校の教育方針として、今とは違って、

手話は使わないというものでした。

 

幼稚部へ通い始めて、いろいろなことがありました。

ストレスもあったのでしょう。
息子が先に、真冬に「トビヒ」になりました。
大人のお母さんには移りませんと言われていたのですが、

間もなく、私も脇の下が真っ赤に皮がむけるほどのトビヒになって、

先生もびっくりするほどでした。

親子で拒絶反応を示してしまい、これがきっかけで、

ここにはいれないと思い、学校をやめることになりました。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子
 

その後、言語指導の先生に出会いをいただき、

指導を受け始めました。

 

難聴”とは、音の中に、言葉があることを知らない障害です。

健聴の子は、3歳ぐらいまで、コップにお水をいっぱいにするように、

お母さんや、周りの人の言葉をたくさん聞いて、ためていきます。
「パパ、ママ」と、話し始めます。

 

言葉と音と文字を覚えるということ、毎日の生活の中に、

たくさんの言葉があることを知りました。

言語の先生から、

 

「お母さん、何怒鳴ってるの?

今のこの子には、犬にほえてるのと同じだよ!」

 

と言われて呆然としました。

「毎日の食生活には、たくさんの言葉、会話があるんだよ!」

と教えていただきました。

 

子供との各駅停車の生活が始まりました。


 笑顔つなぎ人 田中敬子
 

手をつないで歩いて、道端に咲く

「タンポポ、かわいいね!」と話をしました。
普段なら、車や、自転車で、びゅーっと通りすぎてしまうところも、

ゆっくりと関わることを教えていただきました。

 

健聴な子も、それまで習得している、

小学校入学までの基礎言語で、

そのままの会話能力が身についていくそうです。

 

息子は4月出産予定だったのが1月に生まれてしまいました。
そのため、学年も上がってしまい、更に、難聴の障害があります。
言語の先生からのアドバイスもあり、

1年間の就学猶予を教育委員会へお願いしました。
普通小学校へ入学予定だったので、教育委員会としては

 

「異例は認められない。小学校は、どうぞ、入学してください」

と言われました。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子


「今は、まだまだ、話もできないので、もう少し、

言語の習得ができてから、学ばせたい」

 

と品川区、そして東京都の教育委員会の先生と、何度も面談し、

3月31日に正式に就学猶予の許可をいただくことができました。

 

正式な許可がないと、6年生に上がるときに、

書類上、中学へ行かなければならなくなってしまうからです。
 

小学校1年生に入ったとき、担任の先生との相談で、

言語指導を優先していいと言ってくださいました。
そして、1年から4年生までを担任していただき、

本当にお世話になりました。


 

◆39歳の夫、脳梗塞に…


 

1996年(平成8年)7月、娘が小学校4年生、

 

笑顔つなぎ人 田中敬子

 

息子2年生の時に夫が39歳で脳梗塞で倒れました。

 

夏休みに入ってすぐ、午前中は、息子と私は言語指導へ行き、

帰ってきて、自宅で娘と息子と3人でお昼ご飯を食べていたときに、
「高津救急隊です」と電話が入りました。


その日は、いつもと違って、会議で高津へいくと聞いていたので、

何かあったのかな?と思いました。

 

「昨日、ご主人はお酒を飲まれていますか?」
「いいえ、主人はお酒が飲めません」

 

主人が何かを言っていたようなのです。
状況が分からず、子供2人を残し、病院へ急ぎました。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子

 

病院では、今、“くも膜下”かどうか調べていると言われ、

そうであれば、脳外科のある隣の病院へ運ぶとのこと。

結果、くも膜下ではなかったので、

そのままその救急病院に入院しました。
 

夫は、「ガーピーガーピー」意識なく、

いびきをかいて寝ていました。
何か、処置をされるときは、

「田中さ〜ん!田中さ〜ん!」と叩かれても、起きません。
 

翌日ぐらいに、目を覚ました第一声が、

 

「あんた誰?!」

 

でした…。

「あなたの妻です・・・」

 

 

数日して、少しずつ、思い出してきたのか、

「子供たちは、元気?」と言ったので、連れていきました。
娘は病室には入れず、息子は、

「お父さん死ぬの?」と聞きました。
息子は、「死ぬ」という言語がどこまで理解できていたのか、

その言葉は知っていたという状態です。

 

でも、「この人、絶対死なないよ!」

と自分に言いかけせ、確信もしていました。
涙も出ませんでした。

 

『何なの、私の人生!』


 笑顔つなぎ人 田中敬子
 

近所の先生のご紹介で、家から近い、

品川の病院へ転院できることになりました。
子供たちは、夏休みで、姉家族、叔父叔母が預かってくれました。
 

夏休みに入ってすぐ、夫は、倒れたので、
娘が、弟を連れて姉家族や、叔母の家へ、、

家族と離れて、どんなに神経を遣ったことか、

今思い出すだけで涙が止まらないのです。

 

娘が戻って主人の入院する病院へ来たとき、

娘の首は、腫れ上がっていました。
それから、残りの夏休みをずっと、病室で一緒に、

夏休みの宿題を作ったりして過ごしました。
そして、またもう一つ、最後に娘は心配をしていました。
 

主人の頭の出血に、動脈瘤があるか、

手術が必要かという検査がありました。
最終的に、主人は頭を開けることはなくほっとしました。

しかし、その後、、

 

笑顔つなぎ人 田中敬子プロフィール
 

「退院です」と先生に言われました。
 

「えっ??!まだ、別人なんですけど。。。」


「いえ、医学的には、問題がありませんので、退院していただきます」


その夜、ロビーで泣きじゃくりました。

これから、どうなるんだろうかと。

見た目の後遺症は、一見しただけでは分かりません。

しかし、言語中枢を出血してしまったので、

本人は思っていることがうまく話せないというジレンマが

ある生活が始まりました。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子
 

脳細胞は出血してしまうと、

その細胞は欠落してしまうのです。
 

でも、なくなった脳細胞を再生しようとすることを知って、

人間の体ってすごいなと、改めて感じました。

 

私は、息子が生まれてからも、すべて主人と相談してきたので、

相談相手がいなくなってしまいました。
 

全部、自分でやっていかなければ

ならなくなりました。

やるしかなかった。
 

「生きる。生きてるって何?」

何度も何度も考えました。

 

主人は、私が好きになって結婚した夫では、

もうないのです。私にとって、別人でした。

本人がそうしたくて、別人になった訳ではないのです。
話をしていて、辛くて、その場に入れなくなったときは、

私は、その場を離れました。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子

 

自分がノイローゼになりそうでした。

初めてのトラックでの生協の食品の配達の仕事を始めました。

息子も、小学校での生活も長くなってきたので、

子供が帰ってくるまでの時間、週3日午前中のバイトです。

 

体を動かすバイトを始めたことにより、

ストレスも解消されて、体も楽になりました。

主人は、現在、19年以上が経ち、流暢に話ができるようになって

いますが、彼の幼馴染みによると、

 

「今で、普通になったよな」と言われています。

 

 

◆今度は私が…

1997年(平成9年)4月、左前十字靭帯債権手術を受けました。

夫が倒れた翌年でした。


まず、そのきっかけになった最初の事故が、

娘が保育園年長の時、八千穂スキー場のジュニアレッスン中でした。

私が一人で、アイスバーンで転倒し、骨折ではなかったので、

東京の病院へということで、娘の肩を杖に、すぐ東京へ帰りました。

その時、すでに、靭帯を損傷していました。

二度目のアクシデント、夫が倒れた翌年、

娘5年生の時、“親子でバスケット”の行事がありました。

しっかり、一緒に準備運動をしたのです。

 

試合中のジャンプ時、“ブチっ!!”と音がしました。

帰り、歩けたのですが、生協の配達の仕事をしていたので、

明日の仕事があるので、車で病院へ向かいました。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子
 

「配達の仕事は無理です。」

即日、二泊三日の関節鏡手術で、検査入院となりました。
「靭帯損傷」と診断されました。

ただ、「スポーツ選手ではないので、再建手術は大丈夫でしょう!」

ということで、近所の先生のご紹介で、スポーツリハビリに通い始めました。
 

仕事復帰もできるようになりました。

その頃、父が膵臓がんで入院しており、

もう明日にでもあぶない、という状態が続いていました。

 

毎日、父の所へ、仕事後は父の所へという、

気持ちも忙しいときでした。

 

配達の仕事中、あと、3班分の配達を残すときでした。

トラック荷台に荷物を用意し、そこから降りるときに、

踏み台を出さずに荷台からピョンと飛び降りてしまいました。

地面に足が吸い込まれたのです。


左膝靭帯断裂!!

しばらく動けませんでした・・・

 

前のトラックの男性が、動かない私に、「大丈夫ですか?」
足を引きずれば大丈夫かと思って、「大丈夫です。。。」

 

近くの公衆電話でセンターへ電話。

センター長が交代で来てくださいました。
そして、病院へも電話し、帰りに直接行けることになりました。

どちらにしても、どのくらいの状態かを、二泊三日の関節鏡検査を

受けないとならなくなりました。
 

明日なら、空いているとのことでしたが、

明日にも父が。。という状態だったので、

1か月後を予約したのですが、
予約したその日に、父が亡くなりました。

 

関節鏡手術で、処置をしていただき、

半月板は半分なくなりました。

父の葬儀の1か月後、自分の腱を使って、

左前十字靭帯再建の手術を受けました。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子

 

1か月半以上の入院。

というより、毎日リハビリに通いますので、

退院させてください!

(主人の倒れた翌年だったので、ロビーで主人と話ていて、ヤバいかも・・)


 

手術後、一週間の車いす生活です。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子

 

痛み止めを飲んでも、冷やしても、夜は痛くて寝れないのです。

夜中、車いすで、氷を取りにいきました。
先生は「いい腱は、残してあるから!」
とんでもない、二度と同じ手術はしたくない!と思いました。


入院中は、5年生の娘が、前年に倒れたお父さんと、

弟の世話をしてくれました。

平日は、息子を病院へ連れてきてくれて、

病院の食堂で、言語の勉強でした。
平日の食事は、近所の方が、おかずを作ってくださって、

娘がご飯とみそ汁を作ってくれました。
 

夫の入院中、そして、自分の入院と、娘がいたから、

生きてこれたと言っても過言ではありません。

小学生の息子の言語の勉強を毎日しながら、

子供の様子をみながら、いろいろなバイトをし始めました。
今は、家にいた方がいいなと思ったときは、仕事をやめて、家にいました、

 

息子は、娘が通う地元中学校(普通)へ

通い始めました。
しかし、学校自体が荒れていてので、先生方は、

難聴の息子にまで手が回らない状況でした。

 

 

中学校2年の時、世田谷区の学校へ転校を決めました。

私は、息子を持ったことから、パソコン要約筆記

(聴覚に障害を持つ方へのパソコンで情報を伝える手段)

といボランティア活動をしていました。

主に、小学生、中学生、大学生への授業のサポートです。
 

笑顔つなぎ人 田中敬子

 

先生が言うことを、生徒の隣で、パソコンで表示していきます。

パソコンのほかに、手書きでの要約筆記というものもあります。

そして、自分の子供のクラスへは入りません。

 

最初、パソコンの文字を早く打つことはできませんでした。

しかし、難聴児を持った親、また、ボランティアへの気持ちがある方

たちとの出会いから、サークルを作って、練習を重ねました。


そんな時、仲間と世田谷区の「聞こえの学級」」

(難聴の子供たちのための学級・抜き出し授業は、授業へのサポート)

がある学校を見学させていただく機会がありました。


笑顔つなぎ人 田中敬子

 

学校へ通っている子供の保護者の方が、

自分の子供のクラス以外へ、手書き、パソコンで従業の情報保障に

入っているシステムに驚きました。


 

品川区は、「聞こえの学級」がなかったので、

ここへ転校させたいと思いました。

 


夫と、見学を教育委員会へ申し込んだところ、
「他区からの転校は、もちろん、

転校を前提とする見学はできない」とのこと。
転校は諦めていると、夫を連れて、再見学だけさせていただきました。

転校を決め、品川区は、「他区へ出せる」とのこと、

転校先の校長先生と聞こえの先生と相談しました。

最終的には通える距離なので、校長先生が、教育委員会と交渉してくださる

とのこと。とりあえず、住んだ方が早いということになりました。

 

私を息子は、品川区転出し、アパートを借りて住むことなりました。

1回分のボーナスが飛んでききました。
小さいお部屋、お風呂はありましたが、寒すぎて入れませんでした。

近くのお風呂屋さんへ息子と行きました。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子プロフィール


息子を朝、学校へ送りだしてから、品川の家へ戻り、

犬の散歩をさせて、夕飯を作ってアパートへ戻る。

夜は、数学、英語を息子と勉強。

中学校2年とはいっても、難聴のため、

健聴児よりも、幼かったと思います。


何か、忘れ物があったというときは、主人ももう、

車の運転もしていたので、持ってきてもらえる距離です。


娘が高校1年生の時でした。

娘の担任の先生には、その状況を伝えていました。
初めて娘と夫の夕飯を置き、息子と私の雄藩を持ち、

世田谷のアパートへ向かう夕方、娘がちょうど、

熱があり体調が悪かったので、後ろ髪を引かれる思いで家を出ました。

 

電車の中で、娘の担任の先生にお会いすることもありました。

数か月のアパート生活が続きました。
そして、数か月後、他区からの通級が認められて、

品川へ戻ることができました。

息子は、電車で40分ぐらい、通うことになりました。
 

息子は転校初日から、いじめにあいました。
“机を曲げられる”“ズボンには、ガム”

“通級のリックサックがなくなりそうになる”・・・

 

笑顔つなぎ人 田中敬子プロフィール

 

先生が、ガードしてくさいました。
「めげない息子」「障害があるのに、元気」なので、

明るく飛び回っているので、やられてしまうそうです。

 

パソコン要約のボランティアをしていたので、入力は早くなりました。
その後、3年間ほど、映像のI社でのテレビ字幕政策の仕事に就きました。

ちょうど、今の様に、テレビ字幕が全てに付くことが決まった時に、

I社では「字幕部門」が立ち上がりました。


その頃は、まだまだ、テレビ字幕が付く番組は、限られていました。
ドラマだったり、バラエティについているという状況でした。

そこで、私は、すっかり、視力が落ち、乱視もひどくなり、退社。

 

いろいろな仕事をしてきました。

母が着物が好きで、着物があっても、着れないと困るので、

鈴乃屋きもの学院へ通いました。


笑顔つなぎ人 田中敬子


結婚をする前でした。自分で着るのは、数か月で、

マスターしてしまい、相着せといって、人へ着せること、

教えるということになりました。

結婚後も、楽しくて、そのまま最後まで受講しました。
鈴乃屋きもの学院の着付け師、着付け講師の資格を取り看板を購入。

 

結婚後、息子が生まれても、成人式の着付け講習会、

着付けの仕事は、主人に子供をお願いし、続けられるときまで、

続けていました。

 

途中、主人が倒れたり、息子のことで大変な時は行けませんでした。

娘の成人式には、着せたい!とずっと思っていました。


 

息子が5年生の時に、ネイルスクールへ週1回、通い始めました。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子



その頃、週1回ぐらいだったら、通えるなと思いました。

着付けをするのは、冬で、いつも、手が荒れてしまっていました。

爪の形にコンプレックスもあったのですが、

細かいことをするのがとても好きでした。

 

私がネイルを始めたころは、今はジェルが主流ですが、

その頃は、爪を長くするスカルプチャーの時代です。
粉とリキッドを混ぜて、爪の上で形を作っていき、

固まることに、爪の形に合わせていきます。


その技術をみっちり習いました。職人作業です。
材料によって、粉とリキッドが固まる時間が違います。

最初は、お岩のように、爪の上にのってしまうのです。
より素早く、きれいに爪を作って、削って形を整えるという作業です。
私は、そのスカルプチャーが大好きでしたし、得意でした。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子

 

その頃は、長い爪をしていました。

サロンワークの仕事をしたり、スクールで教えたり、

外部講師として、専門学校へ行かせていただいたりしました。

 

まだ、今の様にネイリスト協会が立ち上がる前のことでした。
だんだんと、スカルプチャーの材料が、誰でも買えるようになりました。

でも、そこに、いろいろなトラブルが発生してくるのです。

 

私たちは、学校で、爪のこと、爪の病気など、習ってきました。

でも、何も知識のない人たちが、見よう見まねで材料を買って、

爪の装飾をするようになって、爪とスカルプチャーの間にしっかり

消毒をせず、ふさいでしまい、カビが生えてしまうのです。

 

その頃のネイル学校の流行りと言ったら変ですが、

希望者は、アメリカのライセンスを取るというのが、

組み込まれていました。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子

 

アメリカは、州のライセンスがないと、お店も持てないし、

技術もできないのです。
カリフォルニアのライセンスが一番難しいということで、

そのライセンスを取るコースへ、申込みました。



初めて、自分の病気、出産以外で、家を空けて、旅行へでました。
1度目は、マニキュアリストのライセンスを取るため、

セキュリティナンバーを取得のため、渡米。
2度目の渡米で、実技、筆記の試験があります。

 

朝、早くの便で、ロサンゼルスから、

サンフランシスコの試験会場へ。

筆記は、日本語がありました。

(その後、なくなり、英語のみ)実技のモデルさんは、現地の方。

どんなモデルさんかは、わかりません。

実技試験は、「衛生」という面のチェックが厳しい試験です。

手順をしっかり覚えていくのです。

半日の試験で、胃に穴が開きそうなくらい、緊張しました。

今となっては、いい経験でした。

(日本でそのライセンスが使える訳ではないからです)

 

息子が小学校へ行き、落ち着いてきたころからだったか、

月に1度のドライフラワーアレンジメントのクラスへ通っていました。
その数時間が、楽しみで、無言でしたが、楽しかった。

その頃のことを、先生は、
「田中さん、あの頃、歯を食いしばって、必死にアレンジしてた」

と今でも懐かしくお話ししてくださいます。

 


先生が企画する、「ロンドン、パリのツアー」に

参加させていただきました。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子


 

初めてのヨーロッパ。

いろんなことがあった、楽しい旅行でした。
今もパリに行くと、必ず寄る“ドログリー”という手芸材料のお店は、

先生たちと行ったお店です。

普通のツアーとは違って、お花、花材、手芸材料のお店をめぐるという

楽しいツアーでした。

 

娘とまた行きたい!と思って、娘が高校卒業の翌日から、
イタリア、パリに旅行をしたのが、

私たちが、パリ好きになったきっかけです。
娘と地下鉄に乗りまくって、行きたいところへ行きました。
仕事の合間をぬって、パリへ行きました。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子
 

そして、フランス語を習い始めました。

大崎に新しくできた、スポーツクラブのフロントの仕事

(6:30〜15:30)を契約社員で3年、経験しました。


 

2009年に、漠然と自宅サロンを始めようと漠然と思いました。
スポーツクラブの仕事を2009年9月末で退社。

 

 

2014年4月、自宅サロンオープンを決める。

仕事の変わり目に、大好きなパリへ。
それから、オープン資金を貯めるために夜、仕事しました。


 

2014年4月1日 Salon de Perlesサロン・ド・ペルル オープン。
エステ、ネイル、リフレクソロジー、サウンドヒーリング、

着付け教室、ドライフラワーアレンジメントレッスン、

制作のサロンをしてオープンしました。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子

 

2010年9月10月、サウンドヒーリングセラピスト研修を受講、資格取得。
研修中、10年間、主人が倒れてから眠れず、

飲み続けいた安定剤をやめることができました。

 

2010年11月12月、タカラベルモントにて、

dermalogicaダーマロジカセラピスト研修を受講。

エステ・ボディ、dermalogicaダーマロジカメニュー導入。
 

2010年12月フォーエバーリビングプロダクツ

アロエベラジュースに出会いました。
サロンを始めたことで、ブログを書き始めました。
 

そこから、自由ヶ丘のレンタルサロンでのビーズフラワー制作に伺い、

そこをお借りすることができると知り、

ドライフラワーレッスンにお借りしました。
そしてオーナーからアロエベラジュースを伝えていただきました。
 

“介護されない体作りと、介護しなくて済む環境作り“

のできる野菜ジュース!!
アロエは体にいいと知っていたので、興味を持ちました。

ただの野菜ジュースではなく、少しずつから体に蓄積されている

添加物などを解毒できる作用がありました。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子
 

また、私たちが毎日摂らなければならない、

体の中で作ることができない必須微量栄養素46種類が摂れる。
それを摂ることにより、体の細胞が整い、健康な体になれると勉強しました。
そして、“日本成人病予防協会の推奨マーク”をいただけた商品!!

栄養士、調理師として、小学校の給食を作っている娘と一緒に、

日本成人病予防協会の健康管理士の資格を取りました。
 

「この会社の商品は、健康になれるものが揃っている。

自信をもって紹介していってください」

と協会からも言っていただけている。

そんな商品に出会えたことに感謝しています。

 

娘は、給食を作っていたのですが、

「パティシエになる!」と毎週末、お菓子の学校へ通い始めました。」
毎週のように、ケーキを作り、食べ歩きました。

 

ケーキは、たくさんの白砂糖が使われていいます。

白砂糖の摂りすぎで、顔は、吹き出物だらけでした。
二人で、白砂糖の怖さを知り、

娘もアロエベラジュースを飲むようになりました。

 

大きな解毒は、好転反応として3回ありました。

かわいそうなくらいでした。

でも、良くなることが分かっていたので、やめませんでした。

そして、透き通るような、白い肌を取り戻しました!!

 

 

そして、娘は、結婚する前に出会えてよかった。

これから、自分の体つくりができる。

そして、アロエベビーを産みたい!と、願っています。

そして、超未熟児だった息子にも飲ませたい!愛用が始まりました。

 

息子は、高校を卒業してから、

“突然キレる”ことがありました。

私がサロンを初めてから、暴れることもありました。


アロエを飲んでいると、落ち着くのです。

“栄養が足りてないんだ”と実感しました。


笑顔つなぎ人 田中敬子

 

もちろん、栄養だけでなく、私の接し方、

私の心の問題もありました。

今思うと、反省することばかりです。

 

私自身、健康だけが取り柄でした。

なので、自分のことより、子供のことばかりでしたが、

自分の体もしっかり作らなければいけなかったのです。


2012年7月の朝、突然、全身の硬直、全身のしびれ、

両手両足のしびれを感じ始めました。

レントゲンで、首の骨のつまりが分かりました。

 

MRI検査にて、頸椎椎間板ヘルニアと診断されました。
「この夏は、温泉にでも行って、ゆっくりしていなさい」
安静ではないにしても、動きをストップされる日々が続きました。
 

その夏に初めて出会ったレインドロップ脊椎調整トリートメントで救われました。
これだ!と思って、施術を習得しました。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子

 

10月から、レインドロップ脊椎調整トリートメントをメニュー化しました。

体調も整って良くなってきたとき、サロンとは違うアルバイトをしていました。
声が出せる!と思って、防災施設でのご案内の仕事をしていました。

 

秋の忙しさ、いろいろなストレスを感じていたとき、

11月の朝、初めて吐き気とめまいに襲われてトイレで動けなくなりました。

 

主人にタクシーに乗せてもらうだけと思ったら、

あまりのひどさに、一緒に病院へ着いてきてくれて、

帰ろうとしたら、


「入院ですから、ちょっと待ってください!」

一週間の入院になりました。
 

“良性発作性頭位めまい”と診断されました。

どこからのめまいかを調べるための検査も、

体を動かすたびに、めまいと吐き気が続きました。

何も吐く物がないのに、吐き気が続く辛さは初めてでした。
 

結果、メニエールではなく、脳関係でもないので、
「めまいに慣れてください」
最初、意味が分からなかったのですが、

私は、右に向くと、めまいが起こるというものでした。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子

 

ベッドの上で、首をいろいろに向けて、

めまいに慣れる練習をするのです。
辛かったのですが、点滴と練習で吐き気は止まり、楽になりました。
これこそ、本当に体験しないと分からない辛さだと実感しました。

 

退院二日後レインドロップ脊椎調整トリートメントを受けました。
めまいが止まりました。
そして、自分には、アロエベラジュース、ビーポーレン、

ビープロボリス、プロテインがああるという、余計な不安はなく、

以前より、しっかり摂るようになりました。
 

2013年6月、息子が26歳の時、

顎の2か所の骨折。

プレートを付けて固定する手術。
アロエベラジュース、ポーレン(花粉)、

プロポリス(生きた抗生物質)、プロテインをしっかり摂りました。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子

 

手術後、腫れがひくのが、数か月かかると聞いていました。
手術後、1週間で退院、退院時にはほとんと、

普通の元の顔に戻りました。
それは、本人も、先生も看護師さんもびっくりしていました。
 

2014年8月、望月俊孝氏の

「幸せブーメランの法則」出版記念講演会へ、娘と参加。
8月M昔から受けたいとずっと思っていた

「宝地図一日徹底セミナー」へ参加。

望月さんとは、仕事の関係で、4年前にはお会いしていて、

ミニ宝地図セミナーを数回、受講していました。

 


 

8月末の一日徹底セミナーで、A1サイズの宝地図を作る時間が

90分ほどでしたが、自分の夢が明確になりました。
宝地図を作るだけでなく、その仲間の夢の応援し、

グループでのワークに、涙が止まりませんでした。

 

今、友人の夢を応援できることの素晴らしさに出会ったことに感謝です。

「レイキ!」と思って、
10月、レイキ1・2を何も考えることなく、受講を決めました。
レイキ3、ティーチャーを受講しました。
ちょうと、息子が同じレイキを受講したいと思っていたことが分かり、

息子へつなげたいと思いました。

 

2015年1月、国際レイキ普及協会認定ヒーラー、

認定ティーチャーの試験を受け、合格。
(公益社団法人 日本生涯学習協議会 認定)


 

初めて、息子へレイキをつないだとき、

息子と同じ場所で、私は、涙が止まらなかったです。
廣野先生が、レイキをつなぐときが、一番幸せだよ!

という言葉の意味が、その時、わかりました。
 

笑顔つなぎ人 田中敬子
 

現在、レインドロップ脊椎調整トリートメント&レイキとして、

サロンでは施術をさせていただくようになりました。

今は、レイキなしではいられないという生活を送っております。

 

同時期、2014年10月、ISD個性心理学協会
(公益社団法人 日本生涯学習協議会 認定)に出会いました。

バースデーマーケティングのお茶会に参加しました。
「田中さん、何でもやりたくなるでしょ?!でも、それでいいんだよ!
それが、田中さんの素敵な個性だから!」
と、

先生から言っていただきました。

 

その頃、自分でやりたいことをやっていこうと思っていたときでした。
そこで、改めて自分を認めて、自分を好きになり、

相手を知ることができました。

ISD個性心理学協会の理念にも感銘し、その後アドバイザー講座、

インストラクター講座を受講しました。
私が、以前に知った「動物占い」ではないと、思ったのです。

学びだな、自己成長ができるな!と確信しました。

 

仲間と一緒の11月東京、マスターインストラクター講座を受講したい

と思っていたのですが、すでに、宝地図ナビゲーター講座の第1クール

の予定が入っていました。
 

 

1月の東京まで待てず(これも私の個性で)、

12月大阪のマスターインストラクターを受講しに行きました。
初めてお会いした、協会の一面会長!大阪へ来てよかった!と思いました。
 

2015年4月1日付、正式にマスターインストラクター

(公益社団法人 日本生涯学習協議会 JLL認定)に登録されました。
生年月日で、その人その人の個性が分かるという、統計学、分類学です。


 

2015年2月 宝地図ナビゲーター養成講座受講。
2015年5月 エネルギーマスターセラピスト養成講座受講。


笑顔つなぎ人 田中敬子
 

エネルギーマスターは、過去のトラウマからセルフイメージを

書き換えができるトリートメントです。
私は、息子を障害児に産んでしまったということから、

抜け出ていないことが、一度受けたエネルギーマスターで感じました。

 

私たちは、何かしら、過去にあったマイナスに蓋をして、

生きています。私もその一人。

自分では分かっている、抜け出ているつもりでも、

そうでなかったのです。


それが、分かったのは、自分が、障害者の家族へのサポート

なんてできるはずがないと思っていたことです。
何度も何度も、受けて、少しずつ、そのマイナスを吐き出せたとき、

自分には、それができる!と思えました。
 

現在、娘も、ISD個性心理学協会

マスターインストラクターを受講しました。
娘と一緒に、子育てカウンセラーとしても、活動していく予定です。


笑顔つなぎ人 田中敬子

 

「こんなたくさんのこと?たくさんの資格!!」

と思われることもあります。
私のやることが、全部、つながった!全部必要と思っています。
でも、自分のやりたいことは、一つです。


 

みんなを「笑顔」にすること!

 

人はそれぞれ、状況、環境、その時々で、必要なものが違います。
その方々、一人ずつに向き合って、みなさんの心も、体も、

経済も、健康へ導き、笑顔にすること。
これが私の使命と確信しています。
 


 

私は、笑顔で過ごせる社会、世界を創ることが、大きな夢です。
世界に虹をかける!!

 

フォーエバーの仕事で、家族で、

全国を、笑顔でわくわく活動していきます。

皆さんの日頃の小さな小さな健康への意識の積み重ねで、

日本の現在の医療費39兆円を少しでも削減し、

社会貢献をしていきたい。
障害者、家族への支援をしていきたいと思っています。

 

笑顔つなぎ人 田中敬子
 

 

ISD個性心理学協会 品川 田中支部を作り、

コミュニケーションの楽しさをお伝えし、

笑顔の子育てをしていけるよう、支援していきたいです。

長いプロフィールをお読みいただき、嬉しいです。

 

ありがとうございます。


 

田中敬子